世界に誇る縄文文化


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「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より


2005年の夏休みの頃のことです。
国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。

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上にあるのは、そのときのポスターの写真です。
実は、この写真、縄文人、弥生人に現代人が扮しているのですが、服装や装飾品、髪型に加えて、モデルの顔立ち、体型などまで、非常にしっかりとした時代考証に基づいて、写真に収まっているものです。

ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。

縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。

縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。

ヨーロッパなどでは、だいたい一万年前くらまでを旧石器時代、一万年から三千年くらいまえの時代を新石器時代などと呼びます。

ですから日本の縄文時代というは、欧州や支那における旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化ということができます。

冒頭の縄文時代の女性像は、その長い縄文時代のなかで、一万二千年から五千年前の鳥浜貝塚遺跡からの出土品などをベースに復元されたものだそうです。

鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡です。

鳥浜貝塚遺跡は、福井県若狭町にあります。
丘陵の先端部にあり、現在の地表面より3~7メートル下に埋まっていた遺跡です。

海抜ゼロメートル以下の低湿地遺跡で、河床の下で、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、いわば密閉されていた遺跡です。
第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。

第四次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されました。九本歯の短い飾り櫛で、実に美しい漆塗りが施されています。

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赤色漆塗クシ(鳥浜貝塚遺跡)
縄文時代前期、日本最古の櫛とされている



「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述がありますが、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくるとともに、それだけ良好な保存状態であったことを示しています。

さらに、赤色漆を全面に塗った上から、黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩土器など、当時の高い技術による品が数多く見つかりました。

発見された遺品の中からは、編み物も数多く見つかり、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかにされました。
これを復元して見せてくれているのが、冒頭の国立科学博物館の写真なのです。

縄文時代というと、なにやら、髭(ひげ)もじゃらで髪(かみ)はボサボサ、鹿の毛皮をかぶって下半身丸出しの原始人の姿などを想像してしまいますが、どうやらこれは大嘘です。

こうした考え方は、「文明文化は支那から朝鮮半島を経由して日本に渡ってきた」のだから、「日本文明は大化の改新(645年)以降に始まった」のであり、「それ以前には日本には文明はなかった」・・・すなわり支那が親、朝鮮が兄、日本はおとんぼ、という歴史認識から生まれた、いわば政治的な創作です。

ここでもう一度、冒頭の縄文女性像に登場していただきます。

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冒頭の写真でも明らかですが、縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。

耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかも彫刻付きです。

耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。
腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。
展示品は古くてくたびれているけれど、これが新品だったら、そのまま現代社会でも立派に通用する装飾品です。

また服装は、布製で、極彩色の美しい模様が描かれています。
このデザインを復元したスタッフは、縄文人のこの服装が「そのまま原宿あたりの町を歩いても、なんら違和感がない」と述べています。

おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しいです。

特定のシャーマンの女性だけが、ガチャガチャに着飾っていた、というのではありません。
出土品の数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、特定の、たとえばシャーマンだけががカラフルな装飾品をまとっていたとは言い難いのです。
つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。

女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということです。

しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。

植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものが、ありません。もちろん刀剣や槍の類もないのです。

女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。

おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。

男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。
女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。

ちなみに、日本の縄文期の遺跡は、数千か所発掘されていますが、諸外国に見られるような、頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、肋骨に槍の穂先が挟まっているような遺体は、いまだ発見されていません。

つまり、縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。

日本では、そういう時代が二万年近く続いたのです。
これはすごいことです。

日本人は平和を愛する民族です。
戦いよりも和を好む。
そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれません。


弥生時代にはいると、服装も土器もシンプルなものになり、刀などの武器や鎧を着た武者の人形なども出土しています。

女性たちが美しく着飾れるというのは、平和な世の中のある意味、象徴的なできごとといえるかもしれません。
なぜなら戦乱の世の中では、のんびりと凝った装身具を身にまとったり作ったりするだけの余裕がない。
ガチャガチャした女性の装身具は、敵から逃げるのには不都合です。


縄文人たちがどこから来たのかということについては、最近の遺伝子の研究で、ずいぶん明らかにされています。

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Gm遺伝子の分布

上の図をみると明らかなのですが、Gm遺伝子の中で、afb1b3遺伝子というものがあります。図の赤の遺伝子です。
これは抗マラリア遺伝子で、この遺伝子を持っているとマラリアにやられない。

戦時中、日本の将兵の多くが南方戦線でマラリアにやられましたが、現地の人がなんともないのに、日本人がずいぶんやられた背景には、こうした抗体を持つ遺伝子を持っているかどうかがファクターになっていた。

また、図をみるとab3st遺伝子(図の黄色の部分)を日本人は多く持つのに対し、朝鮮人や支那人にはそれが少ないです。

日本人とそっくりの遺伝子を持っているのは、どうやらバイカル湖のほとりあたりの人たちです。

とうやら日本人のルーツは、北方型蒙古系民族に属するもので、その起源はシベリアのバイカル湖畔にあるようです。


もうひとつ大切なファクターがあります。

気温の変化です。
過去35000年の気温変化をみると、一万八千年前~二万年前に極寒期があり、現在より気温が7~8℃低かったのです。

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過去35000年の気温変化

このときの海水面は現在より120~140m低かったのだそうです。

海峡深度との比較から、北海道は宗谷海峡、間宮海峡がシベリアとかなりの期間繋がっていた。

ちなみに日本の南側・・・屋久島~奄美大島間は深度千メートルあるので、繋がっていません。

津軽海峡と対馬海峡西水道(=朝鮮海峡)も、つながっていたとは言い難い。こちらは水深150Mほどなので、微妙といえば微妙なのですが、完全な陸続きとは言い難いようです。

つまり、もともとバイカル湖畔あたりにいた人たちが、地球気温の寒冷化によって南下をはじめ、樺太から北海道を経て、日本の本州に棲みついたというのが真相のようです。

同時にこの時期、一部の人たちはベーリング海峡を越えて、北米大陸に移住しています。
そうです。アメリカインデアンの先祖です。

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縄文土器の伝播

非常におもしろいのが、長崎県の対馬越高遺跡で発掘された七千年前の土器(上図右)と、神奈川県大和市で発掘された一万二千年まえの土器です。
模様が酷似していますが、神奈川の土器の方が五千年も古いです。

要するに、日本の縄文文化は支那から朝鮮半島を経由して入ってきたものではなく、バイカル湖から樺太~北海道~本州へと南下するなかで、日本の風土に合わせて育まれた文化である、と確定してよさそうです。


一方、朝鮮半島では一万二千年前から七千年前にかけての遺跡が、まったく発見されていません。
これは実に不思議なことで、一万二千年前から七千年前までの五千年間、朝鮮半島からは人間が住んだ痕跡が消えているのです。
なにもない。ヒトの気配が、朝鮮半島からまるでなくなるのです。

朝鮮半島の一万二千年以上前の遺跡・・・つまり旧石器時代の遺跡なら、50ヵ所程度発見されています。七千年前以降の遺跡なら、数多く発見されている。
ただし、朝鮮半島の旧石器時代の遺跡程度のものなら、日本で発見された遺跡数は三千~五千カ所に上ります。

要するに朝鮮半島には、旧石器時代の遺跡自体の数がほどんどなく、しかも一万二千年前から七千年前までの五千年間、遺跡の空白期間がある。

そしてその期間を通じて、日本には、数多くの遺跡が発掘されているということです。

朝鮮半島で、遺跡がなくなる五千年間、そこでいったい何があったのかは、まさに「神のみぞ知る」ことです。


では、ふたたび遺跡が現れる七千年前、なにが起こったのかというと、鹿児島県沖の薩摩硫黄島のあたりの鬼界カルデラ火山の大噴火が起こっています。
世にいう、アカホヤの大噴火です。

この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トンです。
噴出量の対数をもちいた噴火マグニチュードMで規模を表現すると8.1です。
火山灰は、遠く関東地方にまで達します。

これは日本における最大の火山爆発です。

アカホヤ噴火のあと、カルデラ破局噴火は、日本に起こってません。

その噴火で、アカホヤ火山灰と呼ばれる膨大な火山灰が遠く東北地方まで降っています。
当然、南九州の生態系は破壊され、ヒトの住めるところではなくなってしまいます。
生き残ったとしても、土地は火山灰にやられ、農作物は採れない。

そしてこの頃から、西北九州を中心に新たな漁労文化の遺跡が多数出土しています。

生態系が破壊され、土地が火山灰に覆われて植物体系が破壊された中では、人々が生き残ろうとすれば、漁労に頼らざるをえない。実にわかりやすい話です。

必然的に漁業は、それまでの沿岸漁業から、大型魚(マグロ、サワラ、シイラ、サメ)を対象にした、外洋性の大規模漁業のニーズが高まります。

大型魚を釣るには当然大型の釣り針が必要です。

そしてまさにこの時代に合わせたかのように、九州西北部と朝鮮半島東南部に、5~10cmの大型の釣り針が出土しています。

同じ遺跡から、幾何学文様をもつ縄文式土器が出土していますから、これは同じ縄文文化圏の人たちの遺跡であることがわかります。

しかも土器は、模様の共通性だけでなく、土器の生地の製法にも共通性が認められます。
祭りの道具と考えられる貝殻製の面も、韓国東三洞貝塚と縄文中期の熊本県有明海沿岸でそっくりな面が出土しています。

こうしてみると、次のようなストーリーが読み取れるようになります。

1 アカホヤ火山灰の打撃の少なかった西北九州には、九州南部・中部からの避難民が押し寄せた。

2 急激な人口増加は、それまでの西北九州の果類、芋類といった植物食をベースにし、タンパク質の供給を魚に求める、補完的な小規模漁業では、食の供給を不足させた。

3 そこで、食を補うためにみんなで協力して漁業資源の獲得に乗り出し、漁のために遠く朝鮮半島にまで人々が進出した。

遺跡の出土品と年代は、そうした流れを如実に物語っています。


ちなみに、西北九州や朝鮮半島で大型の釣り針が発掘されたのと同じ時代というのは、支那はまだ黄河文明が始まる前です。

長江文明といわれる浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)が発掘されています。

河姆渡遺跡なら、約七千年前の遺跡ですから、時代的にはほぼ同じ時期にあたります。
ここでは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。

支那が春秋戦国時代を迎えるのは、いまから三千年の昔です。秦の誕生にしてもいまから二千二百年前です。


さて、ここからはねずきちの勝手な想像です。

実は、以下の筋書きは、いまの日本ではタブーとされている説なのかもしれません。
なぜかというと、日本文化は支那から朝鮮半島を経由して日本に来たという前提にたった議論でないと、教科書に載せてもらえない。

しかし、そういう先入観をとりはらって遺跡を見てみると、実はまったく別なストーリーが見えてきます。

すこし重複しますが、整理してみます。

まず、いまから一万八千年ほど前に、地球の気温がいまより-8度下がりました。
当然、北極や南極の氷の量が増えた。海面が低下した。
海面の高さは、いまより140Mも低くなります。

海底の深度からみて、シベリアと樺太、北海道、本州、四国、九州は、それぞれ地続きになります。
一方、琉球列島は、深度1000Mなので、海のまま。
朝鮮半島と日本の間は、深度150Mなので、微妙というか、陸続きではなかった可能性が高い。

地球気温の急速な低下で、バイカル湖付近にいた旧石器人の一部が、樺太を経由して日本に流れてきます。
このことは、Gm遺伝子の構造からみて、100%間違いない。

日本に流れてきた彼らは、土器を使う縄文文化を形成します。青森県の大平山元遺跡には16500年前の土器が出土している。

日本に住む縄文人たちの人口は、徐々に増え、二万人程度が、本州を中心に分布します。

その縄文人たちには、武器がない。
その代り、彼らは、彫刻や装飾を好み、日々工夫して美しい土器や飾りを作ります。
要するに働きものだった。
いろいろ工夫し、漆のカンザシなども作るようになった。

古来、凝った装飾品を作るのは、たいてい男性の仕事です。
そして女性たちは、その装飾品を身に付けた。

武器を持たず、労働を好み、自然の恵みと和を大切にして生活する日本人の気質は、こうした縄文人によって、形成されたとみることができようかと思います。
なにせ、縄文時代は、一万八千年前から一千年前まで一万七千年も続くのです。

争いよりも和を好む。女性や美に対して造詣が深い。そして先祖とのつながりを大切にする。
縄文人のこの気質は、日本人の気質そのものです。

一方、朝鮮半島では、いまから一万二千年前から七千年前までの五千年の間、人の姿が絶えて見えません。遺跡がない。

一万二千年以上昔の遺跡も、せいぜい50か所。日本の5000か所の100分の1です。

ともあれ、五千年の間、朝鮮半島には人が住んだ形跡がない。

それは疫病が流行ったためなのか、核爆発でも起こったのか、理由はわかりません。
とにかく人がいなくなった。

ちなみにボクは、この五千年というのは、樹木が原因だったのではないかと思っています。

どういうことかというと、木は、燃料にされます。
つまり、火をおこすのに使われる。

で、そのために木を切ると、そのあとなかなか生えてこない。
とりわけ、禿山になると、洪水の原因になって、平野部に人が住めなくなるし、いったん禿山になった山は、こんどはなかなか木が生えなくなります。

実際、日本でも、大東亜戦争のとき、戦争のため、森林の30%が喪失しています。
それは人が資源として木を伐採したということもありますし、爆撃で焼失したという側面もあった。

ともあれ、3割の森林資源を日本は失っています。

それを、昭和天皇が先頭をきって、植林を行い、そのおかげで日本の森林は、昔ながらの緑をとどめることになった。

ただ、そのとき、早く育つスギを中心に植えたため、スギが生育した昭和の終わりごろには、戦前にはなかったスギ花粉症が大流行することになった。

要するに、樹木(森林)は、伐採したら植林しなければ木は生えてこない。

おそらく日本でも、縄文時代に庶民が一般的に使う食器として陶器が作られたということは、相当数の木が伐採されている。
日々の食事のためにも、樹木の伐採はあったでしょう。

そしてそのままでは、日本も山々は禿山になり、山が禿山になったら、山が雨水を蓄積できなくなるから、平野部は洪水に侵される。

世界中、それが原因で砂漠化しています。

たとえば、エデンの園というのは、サウジアラビアの真ん中あたりに実在したといわれていますが、緑豊かだったはずのエデンは、人類が火を使う(火=赤=リンゴ)ことによって、砂漠化し、そこはいまだに荒涼とした砂漠のままです。

つまり、朝鮮半島でも同じことがおこったのではないか。

12000年前まで半島に住んでいた人々は、火を使い、そのために半島の山々が禿山となり、平野部に洪水が起こり人が住めなくなった。
緑がないから、狩猟も採取もできない。
平野部は洪水に侵されて、農作物もできない。
つまり、人が住めなくなった。

逆に日本は、日本中に数万カ所ある縄文時代の遺跡に、それぞれ庶民の使う道具としての土器が出土していることを考えると、縄文人たちは、相当数の木を伐採しながらも、同時に植林事業をみんなで力を合わせて行っていた。

そうでなければ、いかに温帯とはいえ、木々の育つには何年もかかることを考えると、植林しなければ、砂漠化した可能性の方が高いのです。

植林を行った縄文人と、行わなかった半島人。
その違いが、もしかすると五千年の遺跡不在と、人々が豊かに暮らした日本の縄文期の違いになったのではないか。
そんなふうに思います。

さて、そんな中で、いまから七千年前に鹿児島沖で大噴火が起こります。
屋久島近くの海中で起こったアカホヤ噴火です。
この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トンです。
噴出量の対数をもちいた噴火マグニチュードMで規模を表現すると8.1です。
火山灰は、遠く関東地方にまで達します。

これが日本での最大の火山爆発です。
アカホヤ噴火のあと、カルデラ破局噴火は日本に起こってません。

この大噴火で、おそらく南九州の人々は、大打撃を被った。
野山は火山灰に覆われ、もはや狩猟生活は営めない。
生き残った彼らは、九州北部に流れます。

これによって、九州北部の人たちは、いきなり人口が増えた。
こうなると食料が足りません。

彼らは、食糧事情のため、近海漁業から、徐々に遠洋漁業に向かいます。

そして、遠く朝鮮半島東部(日本海側)にまで進出し、一部の人はそこに住みつくようになります。

なにせ、この時代に、同じ作りの大型の釣り針や同じ製法の土器が、九州と朝鮮半島東側(日本海側)で発掘されているのです。そして日本側の出土品の方が、すこし時代が古い。

朝鮮半島東側(日本海側)に住みついた人々は、やはりそこでも、日本の縄文文化の伝統に従い、武器を持たず、平和な暮らしを続けます。
平和は、人口の増加をもたらします。

朝鮮半島の東海岸(日本海側)に住みだした人々は、人口の増加とともに、一部が半島の西側(東シナ海側)に住み始めます。

そうして朝鮮半島では、半島の日本海側の人々が新羅族、東シナ海側の人々が百済族を名乗った。

ちょうとこの頃、支那は、春秋戦国時代を迎えています。
世が乱れ、戦乱が相次いだのは、史書に明らかなとおりです。

戦乱は、対人用武器を育てます。
東シナ海を漁場にする百済は、支那に近かった分、支那の武具を比較的早期に取り入れます。

武器を持つと、強くなった気になれる。
働かなくても、人から食い物を奪うことができる・・・ろくでもないことを覚えたものです。

朝鮮半島西側の百済の人は、東海岸の新羅の人々を度々襲います。
新羅の人は、もともとの日本人(縄文人)ですから、対人武器を持たない。

ニコニコしているところを襲われ、食い物や女を奪われます。
対抗するために新羅族も武装します。
百済と新羅は、この後、ずっと争いが続きますが、ついには新羅族が百済族を滅ぼしています。(しかしそれは7世紀になってからのできごとです)。

五千年近く続いた新羅族と百済族の争い。このことは、新羅の百済の、現代にいまなお続く仲の悪さとなって表れています。

武器を持った百済人は、海を経て日本にもやってきます。

ただ、当時の船ですから、人数が乗れない。
新羅は陸続きだから襲うことができたけれど、日本には船で行くから少人数です。
これでは戦いにならない。
少人数でやってきたから、せいぜい武器を自慢するくらいしか能がない。

縄文人は、新しいモノ好きです。
なんにでもすぐに興味を持つ。
縄文人は、もたらされた武器をみて、大喜びします。

そしてさらに工夫を凝らして、より使いやすいモノに改良する。
鉄砲が伝来して40年で、日本が世界最多の鉄砲所持国になったようなものです。

中にはこれに対抗するために、武術を鍛えた人々もいました。薩摩のクマソ一族などはその典型であったかもしれません。
自衛、防衛のために工夫を凝らし、絶対に負けない腕力を、みんなで協力して作り上げた。

人々が武器を持つようになったことで、縄文人の文化は一変します。

とりわけ渡来人たちは、衣装も軽衣装で、装飾品も少ない。
要するに、戦いに明け暮れる文化、社会構造のもとでは、凝りに凝った土器や装飾品を作る余裕がなくなり、衣類も逃げやすく動きやすい簡素なものが喜ばれたのです。

簡単に言ったら、武器を持ってる→強そう!→かっこいい→真似したい・・・で、服装がシンプルになり、土器もシンプルで合理的なものになった。
弥生時代の始まりです。

ちなみに、未婚の女性は、自分とすこしでも遠い遺伝子を持った男性を好むという傾向があるのだそうです。
これは遺伝子の遠い人との間で子を作った方が、優秀な子孫を残せる可能性が高い(反対に近い遺伝子を持った人が相手だと近親婚となり奇形が生まれやすい)からなのだそうです。
つまり、渡来人たちは、けっこうモテた。

いまでも、少女マンガの主人公たちは、男も女も白人顔です。
いがいと韓流ブームなどというものも、より遺伝子の遠い男性を選ぼうとする女性の本能からきているのかもしれません。

で、古代日本では、引き目かぎ鼻・・・つまり渡来人型の容姿が、高貴な美の象徴とされた。
すくなくとも絵に描かれた高貴な人は、みんな引き目かぎ鼻のキツネ顔に描かれています。

実際に美人だったかどうかは別として、要するに洋モノ(当時で言ったら渡来モノ)が、高貴とされた。

それが絵画におけるキツネ顔や、土器における弥生顔となって普及します。

時代がずっとさがって、足利時代の応仁の乱あたりになっても、高貴な武士や貴族は、引き目かぎ鼻でキツネ顔に描かれています。
反対に、火事場泥棒をしている連中は、どんぐりまなこに、四角い顔、つまり縄文顔に描かれている。

現代の漫画では、かっこいい役は、西洋顔、悪役は東洋顔に描かれる傾向がありますが、ようするに、大昔の絵画でも、実際に美人であったかどうかは別として、渡来顔が高貴、地元顔が、下品顔とし描かれた。

ただ、だからといって、キツネ顔の渡来人が政権を取ったようにいうのは間違いです。
現代社会の漫画で、かっこいい主役たちが西洋顔をしているからといって、日本の内閣が西洋人というわけではない。


弥生期にはいった日本には、支那の春秋戦国の血なまぐさいウワサ話や、朝鮮半島における新羅と百済の諍(いさか)いについての情報ももたらされたことでしょう。

日本人は、日本人々の生活を守るため、国を統一する必要にせまられた。
みんなで武器を持ち、みんなで国を守るという思考が生まれた。

そう考えてみると、古代の「東征」も、日本が海外からの軍圧に対抗するため、一緒に戦おうよ、一緒に武装していこうよ、という、戦いというより、一種の啓蒙活動であったようにすら思えてきます。
実際、戦いなら、相手を何人殺したとか、全滅させたとかいう話が、記紀にでてきてもよさそうなものですが、そうした話がまったくない。

おそらく、東征というのは、かっこよく完全武装した団体で隣村に行き、外国が攻めてきたらやばいから、あんたらも、仲間になって、俺たちと一緒にブソウしようぜ、みたいなかなり牧歌的なものだった可能性がある。


いろいろ書いていますが、要するになにが言いたいのかというと、約二万年にわたって、武器すら持たず、牧歌的で平和な暮らしを築いてきた日本(このことは間違いのない事実です)に、支那から朝鮮半島を経由してやってきたのは、実は「武器文化=人殺し文化」、すなわち「恐怖の文化」だった。

クチ裂け女の噂話じゃないけれど、恐怖というのは、それなりに強い文化的伝播力を持ちます。

女たちや生活を守らなければならないと考えた縄文人たちは、新たに武装し、弥生文化を開いた。

つまり、古来、支那からはいってくる文化には、ロクなものがなかったといえないか、ということです。


儒学や朱子学、陽明学、漢詩のようなものは、それなりに価値を持ったけれど、支那かぶれが日本に招いたのは、武器にかぶれて働かない傾き者に、盗っ人、強姦、権勢欲。

仏教はよかったけれど、乱暴者の僧兵を招いて都を移さなければならなくなったし、支那事変や、満洲では、日本人がさんざひどい目に遭わされている。

朝鮮半島について言えば、支那から武器を輸入して、男が武器をもてあそぶようになった百済族と、古代のまま男が武器を持たないで働くことを重視して平穏な生活を望む新羅族とでは、その生き方に根本的な違いが生まれた。

最初のうちは、支那にかぶれて武器を持った百済が半島で勢力を持ちます。
しかし、あまりの乱暴狼藉についに怒った新羅族は、百済に戦いを挑むようになる。

一方、武器を持った百済族の一部は、日本にもやってきます。
男が鋤(すき)や鍬(くわ)よりも武器を選ぶ百済族と、やはり武器を持たない大和の縄文族。

やむなく大和縄文族も、武器をもって立ち上がった。
そして国力を増すために、全国を統一し、朝廷を建てた。

もともと働き者の大和族です。
輸入した青銅武器に工夫を凝らし、また戦い方にも工夫を凝らした。
気がつくと、熊襲族など、むちゃくちゃ強い部族が誕生した。

その後、新羅族は、支那かぶれの百済族を滅ぼします。
滅ぼされた百済からは、たくさんの渡来人が日本にやってきた。


まぁ、大昔のことなので、実際のところはわかりません。

ただ、思うに、「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の教えは、そのまま古代の縄文日本から延々と伝わる日本の伝統の根幹だったのではないかと思うのです。

男が武器より労働に生き甲斐を見出すという日本的性格も、やはり日本人の縄文時代から長く続いてすでにDNAに刻まれた伝統なのかもしれません。

そして日本という国の乱れは、常に「支那かぶれ」があらわれることから起こる。

文化は、支那に始まり朝鮮半島を経由して日本に流れてきたという説があります。
トインビーの説など、その典型です。

しかし、なるほど武器や仏教伝来に関しては、そういうことがいえるかもしれないけれど、すくなくとも遺跡を見る限り、支那よりも日本の文明開化の方がはるかに速い。
朝鮮半島など、約五千年の空白時代すらあるのです。

日本には、男性が武器を持たず、女性たちが美しく着飾り、和をもって尊しとする人々の和の文化がもともとあり、そうした大和人のDNAは、現代にまでしっかりと受け継がれている。

支那や朝鮮から伝播したのは、人殺しのための武器と、争いごと、盗っ人や強姦魔など、これまた、いまも昔もなんらかわらない。

以上の日本文化発祥説ともいうべきものは、ねずきちの勝手な想像です。ただし根拠はあります。
文明東進説(支那に起こった文明が半島を経由して日本にもたらされたとする説)を、いったん白紙にしてみると、むしろ文明西進説(日本に起こった文明が、半島や支那に伝播して古代文明が花開いた)で説明した方が、はるかに合理的な説明がつく。

ただ、いいたいのは、日本は、一国一文明の国であり、縄文の昔(ヨーロッパでいったら旧石器時代の昔)から、男が武器より、もっぱら加工や工作、あるいは労働を重視し、女性たちが美しく着飾り、のびのびと安心して生きれる文化と生活があった、といえようかと思います。

古代も、中世も、昔も、現在も、日本は平和で高い文化意識を持った民なのです。

そんな日本を、私たちの世代で壊してしまうということだけは、絶対にしてはならないことだと、ねずきちは強く思うのです。