
やまと新聞の足跡 ④
【本格的活動を展開】
『満州事変が勃発』激動期に直面す
当時新聞の名声は、人気と権威にあり、発行部数にはあまりこだわらなかったので、その統計記録など詳細なものは残っていないが、明治の末期四十四年頃の記録によると、その時点現在で「大阪朝日三十五万(東京を含む)、「大阪毎日」三十二万、「やまと」二十万、「報知」二十万、「国民」十八万、「萬朝」十五万、「東日」五万、「時事」四万という数字が残っている。当時は日本全人口も今日の半分、購読人数も少なかったので、紙幣価値の倍率ほどではないが、当時の二十万部、三十万部は、今日の二百万、三百万部以上に匹敵するバリューであった。なお「都新聞」は明治三十五年の創刊で、「やまと新聞」の盛名にあやかるべく、その特徴を模倣して、後発ながら比較的よく伸び、堅実な地歩を築いていた。
<関東大震災襲う>
我が国新聞の発展経過は、いくだんかい、数●せい、そう、(割)期を設定する事が出来るが、大東亜戦争期を除いて、最も大きな変革期は、大正十二年の関東大震災であった。「やまと」「読売」「国民」「時事」「蔓朝」「二六」「報知」等は勿論東京が本拠であり、被災の中心地に存在していたから本社屋、印刷設備は殆ど灰燼に帰し、それでも焦土の中から起ち上がり、焼け残った場末や郊外の印刷屋を探し求め、ニュースに餓えた人々に光明を与えようと必死だった各社に比べ、同じ東京本拠でも「報知」だけは、焼けた社屋の地下室に予備の活字や機械を持っていたので火が収まるや直ちに新聞活動を再開したが、それよりも決定的に有利だったのは、大阪を本拠とした「東京日日」「東京朝日」だったことはいうまでもなく、両紙は大阪から資金、設備機械、人間等、万般の供給を得て、東京各誌が復旧に喘いでいる間に、活動を欲しいままにし、各紙の地盤を濡れ手で栗のつかみ取り、東京各誌も死闘を続け失地回復に懸命だったが、立ち遅れの差をいかんともする能わず「朝日」、「毎日」の両頭を許さざるをえなかった。とはいえ、それは発行部数においてのこと、新聞の本領、権威においてはおのずから別であった。
<読売の派手な紙面>
然し同じ報道の「読売」はそれから間もなく正力松太郎の経営となってから、大阪系両紙の追い上げにかかり、正力が永く警視庁官房主事だったことを活用し、工業倶楽部会員の関東財界人等に資金援助の匿名組合をつくらせ、関東財界人はまた「大阪の新聞に負けるな」と積極的な援助を敢行したので「読売」は米ハースト系の編集方法を取り入れ、特だねスクープシステムで、大衆好みの派手な紙面と、今日の公安委が目をむくような景品つき読者獲得戦術で人気をあげ、発行部数を増大、朝、毎と肩を並べ、朝、毎、読と並称されるに至った。
<依然、特徴生かす>
さて「報知」「やまと」「国民」「時事」「都」等は発行部数こそ三紙にゆずったが、依然特徴を生かし、中央紙としての面目を維持しつつ昭和年代に入り、昭和二年、同四年の金融パニックを経験して年を重ねるうち、図らずも満州事変勃発からの激動期に直面した頃から、「やまと新聞」は一段と他紙の目を見はらせるよう本格的な活動を展開した。
2009年10月 2日 at 13:14
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