
やまと新聞の足跡 ③
≪決定的変革期≫
【戦況ニュースに努む】
『やまと優位』動かず
<次々に大芸術家を育成>
こうして各紙は明治二十七年―八年日清戦争に直面したが、戦争となると民衆は何よりも戦況を知りたがり、号外のベルの音は民衆の血を沸かせ、当然に報道主義の「朝日」「毎日」「報知」等の発行部数は俄かに増加した。けれども勿論「やまと」その他も戦況ニュースにも努めたので、やまと優位は動かなかった。明治三十三年、時の衆議院議員松下軍治が経営の衝に立ち、福地と力を合わせ、文化開発の新境地をも開拓、この頃の福地は政治、経済のみならず、文学、芸術にも造詣を深くしていたので、両々相まって文学、演劇、その他の芸道絵画を伸展させたから、当時の文学者、画家、俳優、芸人達は「やまと」によって育成され、またそれを支持し、これが民衆を惹きつけた。
<大芸術家が支持>
中でも明治の文豪と言われた柳川春葉、小栗風葉、尾崎紅葉、村上浪六、のちには永井荷風、川口松太郎、画家では鈴木清方、横山大観等は最も熱心な支持者であった。かくして「やまと」新聞は中央紙として首位、全国を通じて一流紙として、明治、大正にかけ盛名をほしいままにし、日本新聞史上の一大光彩と謳われた。松下は山縣有朋に厚い知遇を受けていたし、後には宮廷の権力者田中光顕と深く交っていたので、明治三十八年福地の死後も、その牙城を揺がさず、というのも眼の寄るところへタマが寄るというように、記者、社員に優秀な者が集まっていたからでもあったが、その中から政界、文壇その他各界に打って出たものも少なからずあった。
<植原悦二朗も出る>
政界に出た者の中には、大正、昭和前期にかけての有名政治家中その経歴に「やまと新聞記者」だった例も多く、植原悦二朗ら大臣クラスの政治家も十指に余るほどであったし、御手洗辰雄、川口松太郎当もそれにつながる人材であった。
2009年10月 2日 at 13:13
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