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「やまと新聞の足跡2」(連載6回)

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「やまと新聞」昭和44年7月1日号から7月6日号(それぞれ国立国会図書館保存)までの6回にわたり掲載されていたものです。

やまと新聞の足跡【2】
【明治十九年秋に創刊】
『忽ち発行部数第一位に』



<日本主流新聞史通論>

明治初期の日本は新旧道義入り乱れ、新時代への思想混迷し、指導方針を渇仰していたので、これに応えるために、まず明治十五年福沢諭吉が「時事新報」を創刊し、慶応義塾的指導を以ってした。報道主義だった「東京日日」は明治十七年福地源一郎(桜痴と号す)を社長に迎え、その斬新卓抜な論説解説をもって一時他紙を圧倒したが、やはり毎日の生地は争えず、官報的報道尊重に傾いたので、二年後福地はたもとを分かち、条野採菊と共に明治十九年秋「やまと新聞」を創刊した(初期は〝日出国〝と書いて〝やまと〝と読ませた)。



<福地源一郎がつくる>

福地が「やまと新聞」をかざして世にまみえるや、政界、財界初め各界の人気翕然として集り、忽ち発行部数第一位。福地は天保十二年長崎の医家に生まれ、十五歳からオランダ大通辞名村八右衛門について蘭学を修め、十九歳安政六年幕府外国方の要職に就き、文久三年と慶応二年の二回に亘り渡欧、英仏の金融経済を特に研鑚、渋沢栄一に師事し、明治三年その推薦で伊藤博文と渡米、貨幣銀行制度を専攻、国立銀行設立の基礎を堤供し、伊藤を通じ木戸孝允、井上馨等、新政府の顕官達と親交を結び、同十一年商法会議所副会長、十七年、前記東京日日社長となって文名を甦せた。



<立憲帝政党を結成>

この間、彰義隊上野戦争を批判して筆禍(ひっか)投獄、立憲帝政党を結成し、政治運動で入獄したこともあった。こういう経歴を持つ人物であったから「やまと新聞」紙上に発揮した学識、識見、才能そして野性は抜群ピカ一、他紙人の及ぶところでなかったし、その「やまと新聞」が他紙を制圧したのは当然であった。これに刺激されて徳富蘇峰が明治二十年に「国民新聞」を興し、藩閥政治打倒を旗印に、黒岩周六(涙香)が二十五年「よろず重宝」萬朝報を創刊して有名人のスキャンダルや犯罪事件や猟奇的翻訳小説などを特色に、二十六年秋山定輔が「二六新報」を創刊して国事に対する抱負を実施することを標榜し「やまと」の後を追ったが、到底敵すべくもなかった。(つづく)

2009年10月 2日 at 13:07 | パーマリンク