
「やまと新聞」昭和44年7月1日号から7月6日号(それぞれ国立国会図書館保存)までの6回にわたり掲載されていたものです。
やまと新聞の足跡 ①
<日本主流新聞史通論>
【一世紀も前に実施】
『インボデンに媚態を呈す』
現在の新聞関係資料ないし文献は終戦後か、古くとも昭和十年以降に書かれた物が多く、明治?大正時代の実情を真実に伝えるものは頗る乏しい。それは朝・毎・読各紙関係者によってつくられた物であるから、全て朝・毎・読中心となっている。ちょうど日本の中世以降の史料が、徳川幕府の御用学者によってつくられたものばかり残されたので、徳川に都合の好いこと一辺倒となったことと同断である。本論は老骨の筆者が、戦前多年の新聞経験により、目のあたり見たこと及び、先人より直接伝えられた事実に基づき略記したものである。(大森鉱太郎)
<大新聞創世記>
日本終戦当初、ゼネラル・ヘッド・クォーター略してG・H・Qの新聞担当インボデン少佐が日本新聞界に君臨(当時の無気力な我が新聞界が彼をして君臨せしめた)し、"新聞は事実の報道を全使命としなければならない"と定義し、これをプレスコード第一条とした。我が新聞界はこれをさも民主主義下における新意義であるかの如く推載したが、新聞が事実を報道する事は極めて当然で、新聞のイロハ、中学生的な初歩的文句、それを新意義なぞと推し載かなくても、明治五年、本山彦一、条野伝平、池田伝助らが報道を主とした大衆新聞として「大阪毎日」「東京日日」を同十二年、村山竜平が上野理一津田貞等と「大阪毎日」、二十一年に「東京朝日」各新聞を創刊、毎日創刊の翌六年には新政府の初代駅逓頭(今日の郵政大臣)前島密が部下の太田金右衛門をしてローカルニュースを報道するため「郵便報知」を、またその翌七年には神奈川裁判所の通訳子案俊、本野盛厚、柴田昌吉等が「読売新聞」を、これまた大衆報道新聞と銘打って創刊するなど、インボデンの初歩的定義は、すでに一世紀も前に日本でスタートしていた。然し新聞の真の使命は、事実無差別に報道すれば能事足れりとするものではなく、報道する事実の是非善悪を、高い次元、高い道義をもって判断し、是、善なるものはこれを宣揚し、非、悪なるものはこれを剔抉糾弾して世論を喚起し、政治家、事業家、教育家その他の指導層を含む民衆を指導し、国家社会のおもむくべき道を明らかにするものであらねばならぬ。そこに新聞は〝無官の帝王″或は〝社会の木鐸″と言われる本質がある。
<報道だけに縛る>
インボデンは日本の新聞に占領政策の批判をしてもらいたくないから、報道だけに縛り付けて置こうという、アメリカないしマッカーサーの意を体しての事だったかもしれないが、元来がアメリカの一小地方都市で一万か二万の新聞業者だったインボデン自身は、このような高次元の新聞使命は自覚しなかったであろう。
<真使命が躍動す>
お国のニューヨークタイムスワシントンポストなどには真の使命が見られるし〝大英帝国の宰相になるか、ロンドンタイムスの主筆になるか″との喝破を生んだロンドンタイムス、第二次世界大戦後の戦争裁判に対し〝誰か神の如き権限をもって裁き得るものありや″と連合軍の独善を叱咤したマンチェスターガーディアンなど、ここに新聞の真使命がある。
(つづく)
2009年8月 8日 at 18:29
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